日別アーカイブ: 2016年1月19日

『医学は迷信』岡田茂吉医学論より

「医学は迷信」

 

 

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医学は迷信なり

医学関
御論文集『医学革命の書』執筆日不明、推定昭和28(1953)年

序文にもある通り現代医学がいかに誤っているかをこれから種々の例を挙げて説明してみるが、まず誰しも病気に罹るや早速医師に診て貰う。医師は一通り診 察をして簡単に病症を言い、投薬注射等を行うがそれで治る事もあり、治らない事もあるのは誰も知る通りである。ところがこの場合診断の方法としては程々の 機械を用いておよその見当をつけるが、これは病気として表面に表われただけの説明であって、その内容も真の病原が分らずに治療するのであるから、思うよう に治らないのは医師もよく知っているはずであるどころか、医師自身は長年月かかって専門の教育を受け卒業後も相当実地経験を経た事とて分ったつもりでいる が、実地にぶっつかってみると余りに学理と異(ちが)う点が多いのでその悩みは一通りではない。そこで思う事は、医学は未だそこまで進歩していないから、 止むを得ないが、しかし世界中の学者の絶えざる研究努力によって徐々として解決されるに違いないからその時まで待つより仕方ないと諦めているのが現状であ ろう。それと共に患者の方でも、病気になったら、医療で治るものと子供の時から教育されており、しかも医学の進歩を種々の道具立てで固く信じさせられてい る以上たまたまその誤りを吾々が話しても信じないのも無理はない。しかしたとえ医療で治ってもそれは一時的で、全治でないから必ず再発するか、または形を 変えた他の病気となって起るのは勿論で、治った安心がいつも裏切られるのは誰も知る通りである。その証拠には、病家といって町医師などは、必ず常得意を もっている。もし本当に治ったとしたら、それで済んでしまい、その先は御用無しになるから縁が切れてしまうはずである。また医学で本当に病気が治るものな ら、医師の家庭に限って病人はないはずである。またよく言われる、手後れなど実はあるものでないので、これは病院の看護婦などもそうで、しかも治療設備も 至れり尽せりであるにおいてをやである。ところが実際は医師の家族も病院の看護婦も一般人よりも病気に罹り易い事実はどういう訳であるかである。また医学 博士などは最も長命であるはずなのに、統計上他の博士よりも早死と言われている。そうしてこれも分らない話の一つだが、よく医師は病人に対って“あなたの 苦痛は神経のためで、これという病気はない”といって済ましているが、もしそれが本当だとしたら、病気のないのに苦痛を感ずる神経としたら、その神経が大 いに病気に罹っている訳である。故にそれを治すべきではないか、
また“あなたの病気は重いから入院しなければならない”というので“では入院すれば必ず治るか”と訊くと“それは請合えない”という答などもよく聞く が、これほど理屈に合わない話はあるまい。察するにこれらは患者を研究材料にする目的ではないかと思うが、患者こそ好い災難である。それからこういう事も よく聞く、“あなたの病気は万人に一人しかない程のものだから治らないのだ”という言葉も一種の遁辞としか思えない。また原因を訊かれても適切な返事の出 来ないのは医師もよく知っているであろう。その殆んどは御座なり的で曖昧極まるものである。それと同じようによくラジオや新聞にある質疑応答などもそう だ。断定的の答は殆んどない。特に馬鹿々々しいのはよく“専門医に診て貰いなさい”というが訊き手は専門医に散々かかって治らないから訊くのである。その 点医師は百も承知であるが、答に窮したための逃口上であろう。その他こういう事もある。“あなたの病気は正しい医師に診て貰え”“正しい療法を受けなさ い”などというが、もしそうだとすれば、正しくない医師も正しくない治療もある訳である。しかし実際素人である患者にその正不正の判別は分るはずがないで はないか、もしそれが本当だとすればおかしな事になる。それは今まで有名な博士や大病院で散々治療を受けても治らなかったのはつまり正しくない医師に掛か り、正しくない治療を受けていた訳であるというように、何もかも、一時逃れとしか思えない。また医師の言葉もそうである。例えばその薬なら、その療法なら 必ず治るとは言わない。治るはずだとか、治る事になっている。学理上そうでなくてはならない、そう言われている。まだ医学はそこまで進歩していない。まだ 分っていない、それでいい訳だ、そんな訳はないなどは誰も知っているであろう。
酷いのになるとこういう事も聞く“あなたのように、医師ばかり頼っては困る。自分でも治すようにしなければいけないというに至っては噴飯物である。以上によってみても現代医学の程度はほぼ分ったであろう。
このような幼稚極まる医学の実体を専門家も一般人も看破する事が出来ず、病気は医師と薬というように、これが常識となっているのであるから、全く世紀の 謎である。故に医師に掛かりながらどんなに悪化しようが苦しもうが疑うどころか、死んでしまっても目が醒めず運命と諦めているのだから、よくもこれほどま でに科学の魔術にかかってしまったものと驚かぎるを得ないのである。この医学迷信に比べたら、宗教迷信などは物の数ではない。ではこれほどの迷信は何に よって作り上げられたかというその真相を次説明してみよう。

 

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

 

「医者が患者をだますとき」より「死の医学」

医者が患者をだますとき
より
 死の医学

医者が仕事を休むと死亡率が下がる

現代医学は偶像崇拝の宗教である。 なぜなら、現代医学が神聖なものとしてあがめるのは、人々の生命ではなく、医療機器に依存した儀式だからだ。 現代医学が誇る業績とは、どれだけ多くの人の魂や生命を救ったかではなく、どれだけ多くの新しい医療機器を使い、どれだけ多くの収益を上げたかということである。

すべての宗教の根源には、現世の状況に対処しようとする人間の試みがすべて行き詰まったときに生きる勇気を与える希望の泉が秘められている。 まさにそれこそが、全てを超越した絶対的な存在、すなわち神にほかならない。 現代医学教の根源にたどり着くには、おびただしい薬の海をわたり、膨大な医療機器の平原を超え、道なき道を進んで行かねばならない。
なぜ現代医学教が残忍な偶像崇拝であり、なぜ人びとはこの現代医学教を打破しなければならないのか。
その理由は、この宗教の神と向き合えばわかるだろう。

現代医学教の神の正体、それは死に神なのである。

「医者による大量虐殺」という言葉がある。 クエンティン・ヤング博士が現代医学の一面を表現するために考案した造語で、
医者が組織的に大勢の人間を殺しているという意味だ。
医者による大量虐殺の一例が、前章で指摘した発展途上国における大勢の乳児の犠牲者である。
安全にミルクを作る環境にない貧しい人々に人工栄養法を大々的に推奨することは、現地の無防備な人々に対する医者の宣戦布告に等しい。

現代医学がいかに猛威を振るっているかは、医者がストをしたときにいつも一目瞭然となる。 医者が仕事をしなくなると、人びとが健康で幸せに暮らせるのだ。

南米のコロンビアの首都ボゴタで医者が五十二日間のストに突入し、救急医療を除いていっさいの診療活動を停止した。
現地の新聞はストの奇妙な影響を報じた。 死亡率が35%も低下したのだ。 国営葬儀協会は「偶然かもしれないが、これは事実である」とコメントした。

ロサンゼルスで医者がストをしたときには死亡率が18%下がった。 カルフォルニア大学ロサンゼルス校で医療管理学を研究するミルトン・レーマー教授が、17の主要病院を調査したところ、ストの期間中、手術の数が六割も減少したことが明らかになった。 しかし、ストが終わって医療機器が再び稼動すると、死亡率はスト前と同じ水準に戻ったという。

イスラエルでも同様のことが起こった。 ストが決行されたために、患者の数が一日65,000人から7,000人に減らされた。
エルサレム葬儀協会によると、ストが行われた一ヶ月間で死亡率が半減したという。 イスラエルでこれほど死亡率が下がったのは、さらに二十年前に医者がストライキをしたとき以来だった。

この現象について説明を求められた医者は
「救急患者に限定して診察したので、重症患者に労力を集中できたからだ」とこたえた。
言い換えれば、医者が軽症患者に余計な治療を行わなければ、人命救助に貢献できるということだ。
医者が救急医療に専念して、不要な医療を慎むのは正しい選択だ。 私はかねてから「医者は永久にストをすべきだ」と主張してきた。 医者が診療活動の九割をやめて救急医療だけに専念すれば、人びとの健康は確実に増進するはずだ。
医者の労力の大半が、人を死に至らしめる行為に費やされている。
現代人はこの由々しき事実から目をそむけてはいけない。

私は学生たちに皮肉を込めてこう教えてる。
「医者として成功したいなら、人の死について考える分野を探しなさい。そうすれば輝かしい将来が約束される」と。

現代医学に関するかぎり、人の死は成長産業である。 医学誌を開けば、避妊、中絶、不妊手術、遺伝子診断、羊水検査、
人口のゼロ成長、尊厳死、生命の質(QOし)、安楽死に関する研究記事が掲載されている。
現代医学が目指しているのは、生命の管理と終結である。 遺伝子診断や人工妊娠中絶につながる羊水検査の強制については議論の段階だが、議論は実施の前段階だ。
深く考えもせずこんなことを礼賛している社会は、宗教的狂乱に陥っているとしか言いようがない。
いずれの医療行為にも生命の尊厳を損なう悪影響があり、化学的な正当性が欠落していることに気付かないように、人びとは情報操作によって騙されているのだ。 どの医療行為も、その本質は死の儀式に他ならない。

生命学を無視する医者たち

人間は生命を育むように設計されている。 その大半の欲求は生殖と自己保存だが、人間のこうした本能の営みは現代医学の攻撃の対象になっている。 人工妊娠中絶、マスターベーション、同性愛といった子どもを産まない性行為は人口増加を抑制する結果となる。 このような「代替ライフスタイル」が許容され、人類が太古の昔から連綿と営んできた生命をはぐくむ行為が受け入れられなくなってきているのが現状だ。

受け入れられているのは、現代医学教の死の儀式に繋がるものばかりである。 自宅で子どもを産むことは罪悪とされているが、病院で中絶しても罪悪には該当しない。 しかも、この手術で患者にどれだけ負担がかかるかは考慮されていない。
現代医学教は、生命を育まない性行為を奨励するだけでなく、生命の軽視も強調する。 これは生命に対する間違った態度であり、人間性が踏みにじられ、良識が欠如している。

たとえば、現代医学は全ての女性に中絶の権利があると認めているが、中絶は選択の自由という観点から捉えるのではなく、生物学的に中絶よりももっと大切なものがあるという視点から捉えなおすことが大切なのだ。
ユダヤ教の律法のような伝統のある倫理体系では、母体が危険にさらされているときに限り、母親の生命は胎児の生命に優先するという判断に基づき、中絶が権利としてではなく義務として行われている。 だが、現代医学は中絶を一方的に奨励するばかりで、母親であれ胎児であれ、生命の大切さを考慮しようとはしない。 現代医学が関心を寄せているのは医療技術でしかないのだ。

現代医学は女性に及ばす被害を顧みず、産児制限を大々的に推進してきた。 だが、これは現代医学が犯した大きな間違いのひとつだった。
産児制限は、道徳的な罪悪と生物学的な罪悪の違いを最も際立たせる問題である。 産児制限そのものは道徳的には間違ってはいないが、産児制限で行われるいくつかの方法は、女性の生命をおびやかす危険性があるという点で生物学的な間違いを犯している。

ピルやペッサリー、子宮内リング(IUD)などの避妊法について、医者がそれらに伴うリスクをどの女性にも納得させたうえで本人に選択させるのであれば問題はあまりない。 しかし実際には、これらの処置が女性の体をどれだけ危険にさらすかという点について当の本人には十分な説明がされておらず、選択の余地すら与えられていない。

医者は生物学を無視する。 つまり、医者は自分が行っている医療行為が患者にとって利益よりも不利益になる可能性があるという事実を徹底的に無視するのだ。

だからこそ、現代医学の真の目的(死への儀式)が忠実に実行されるのだとしか説明のしようがない。

余命告知の問題

医学生だったころの私は、医学とは救助と延命を追及する学問だと思っていた。 最近よく言われる「死に方の質」という問題に関する真剣な議論は、かつてはほとんど行われていなかったように記憶している。 当時、人の死を扱うときは希望を持ち続けることが重要とされていたからだ。
死を否定するというのは、最近ではあまり好ましくないように受け取られがちだが、多くの研究で指摘されているように、がん患者は病気を受容するより、むしろそれを否定して病気に立ち向かってゆくほうが生存率は高くなる。

この問題について「イギリスの医学雑誌」はこんな興味深い記事を掲載している。
「生存期間を左右する一因として、患者の心理的要因があることが臨床データーによって裏付けられている。
最近、ワイズマンとウォーデンの両博士ががん患者の生存率の統計をもとに、平均より長生きした患者と
早く死んだ患者を比較した。
その結果、病気が進行したとき、生きる意欲と闘争心をもって積極的な姿勢を維持する患者は平均より長く生き、
反対に「もう死にたい」と口にしたり簡単に死を受容したりする患者は平均より早く死亡していることがわかった。
さらに、心臓病患者でうつになりやすい人は、そうでない人に比べて生存率が低いことも複数の研究で明らかにされた。
総合的に見ると、希望に満ちた心のもち方は寿命を延ばし、死を受容したり気持ちが沈んだりすると寿命を縮めるようだ」

このような報告がある一方、最近の医学会議で、ある医者が抗がん剤治療について次のような発言をしていた。
「救命の方法と新しい治療法の発見には大いに興味があるが、患者がある程度死を受容して安らかに死ぬことが
出来るように配慮することが大切だ。私はスタッフと共に時間と労力の大部分を割いて末期患者に接しているが、
その際のカウンセリングはできれば家族のいないところで行うようにしている」

なぜ、この医者を含めて死の商人たちは「家族のいないところでカウンセリングを行う」というのか。
私にはその理由がわかる。
家族の目的は生命を育むことであり、家族の影響があると、患者を死から遠ざけることになるからだ。

人の死を研究している多くの医者は、患者は死を受容すべきだという前提に立って医療にかかわっている。 つまり、医者は患者を治療して死なせているのだ。 その理由は、患者を治療して生かせておくことができないからである。 医者は「死を否定することは、ある意味で精神的に不健全だ」と言い、さらにこう主張する。
「もし末期患者が死について語らず、死と直面もせず、あきらめて死のうとしないから、長いあいだ病気で苦しむことになる」
カウンセリングで死を受容することを患者に説く医者たちは、何か見当違いをしているのではないか。
「もうこれ以上生きられる見込みはありません」などと言う医者は、患者にとって何の役にも立たない存在である。
患者に「あなたはもう長くは生きられません」と言って余命を告知することは、患者に呪いをかけているのと同じなのだ。
患者は医者の言葉を信じ、告知されたとおりに死んでいく。

気の持ちようが体の治癒能力に影響を与える。 もちろん医者は自然治癒力を認めようとはしないが、楽観的な姿勢を維持することがいかに大切であるかは論をまたない。 医者は余命を告知するよりも、むしろ患者の将来設計を手伝うべきだ。
患者に「死に至る病気なので、医学の力ではあまり効果がない」と言うのと、「あなたの死は避けられない」と言うのとでは意味が全く違ってくる。
もちろん医者が患者の病気に対して無力であることを認め「現代医学以外の治療や患者自身の自然治癒力を活かせば効果があるかもしれません」と言ってしまえば、患者に対する統制力を失うことになる。 だから、医者としてはそんなことはなかなか言えない。 現代医学の儀式(治療)はますます奏功せず、患者の生命を脅かすようになっている。
医者のこうした仕事振りがもたらす必然的な結果は、医療ビジネスを営む上で理にかなっている。
患者が死を人生の一部として受容するようになれば、病院としては死の領域を扱う医療を新たに設けることが出来る。

それが終末期医療である。