健康の真理『神示の健康法』


岡田茂吉氏の論文より

 

 

 

一部抜粋転載

 

三 健康の真理『神示の健康法』

 

そもそも、健康を説くに当って第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然順応であり、自然尊重である事である。それに就いてまず考うべき事は、造物主即ち 神が人間を造られた御目的は何であるかという事である。我等の解釈によればそれは真善美の完き世界を造る事である。といってもこんな途方もない説は容易に 受入れ難いであろう。勿論、その様な理想世界は何万何十万何百万年かかるかは分からない。としても世界はそれに向かって一歩々々進歩向上しつつある厳然た る過去の事実を見れば否定も出来得ないであろう。そうして神は霊で人間は体であり、両々相まって無限の進歩を遂げつつあるのが実相で、その担当者として人 間があるのはいう迄もない。
以上の如くである以上人間の責任たるや実に大なりというべきであると共に、この大事業を遂行する何よりの条件としては、人間の健康である。この意味に於 いて神は人間にはそれぞれの使命を与え、任務を遂行するに足るだけの健康を与えられているのは当然である。何となればもし健康をそこなうとしたら、神の御 目的は達せられないからである。まずこの道理を基本として深く考えるとしたら、健康こそ人間の本来であり、常態であらなければならない。しかるに不思議に も人間は病気に犯され易い。即ち異常体となるのである。とすればこの事の根本が明らかに判り異常体を正常体に復活せしむる事こそ神の御目的に添う事になる のである。
右の意味によって、人体の異常化を検討する時、何を発見するか。それは何よりも自然に反する為という事である。故にこの反自然の実態を把握し訂正し、常 態に復元する事こそ真の医学であって、その復元の可能であるこそ、正しい医学のあり方である。従って反自然とは如何なるものであるかを以下詳説してみよ う。
人間がこの土に生まれるや、最初は人乳または獣乳を飲む。これは歯が未だ生えず、消化機能も出来立ての脆弱性であるからで、漸次歯も生え揃い、体内機能 も一人前になるに従って、それに適応すべき食物を摂る事になる。また食物もあらゆる種類があり、それぞれ特有の味わいを含んでおり、人体の方にも味覚を与 えられ、楽しんで食するようになっている。その他空気も火も水も、人間の健康に必要な程度に存在しているというように、実に完全に出来ている。人体といえ ども頭脳から理性も記憶も感情も生まれ、手によって物は造られ、足によって人体を自由に移動せしめ、毛髪も皮膚も爪も眼、鼻、口、耳等必要なものは実によ く備わっている、加うるに顔貌から全身まで皮膚によって包まれ、それぞれの美を発揮している。ざっとみただけでも、以上の如くで、些細に検討する時、言葉 では言い表せない造化の妙技である。一輪の花、一枚の葉、山水の美、鳥獣虫魚の末に至るまで、神技の素晴らしさに感嘆せざるを得ないのであるが、特に人間 に至っては全く造物主の傑作である。特に種の保存としての生殖作用至妙に至っては言語に絶するものがある。この様な神の大傑作である人体である以上、病と いう人間活動を阻止するような異変は、如何に反自然的過ちを犯しているかを考えるべきである。人間たるもの、この事に最も反省しなければならないのであ る。

四 人間は健康の器『神示の健康法』

よく昔から人は病の器などと言うが、これほど間違った話はない。我等はこれを訂正して人は健康の器なりというのである。前項に述べた如く元々人間は健康 に造られたものであるからである。ところが実は病なるものは人間に付き物で、どうしても解決出来ないのが現実で、やむを得ず宿命として諦めてしまったので ある。勿論人間一度病に罹るやなかなか簡単には治らない。長くかかったり頻繁に病気に罹ったり人によっては健康時よりも罹病時の方が多い事さえある。それ が為病の器としか思えないので、そのような状態が長く続く事によって病の器などという言葉が出来たのであろう。というのは病気の本体が不明であったから で、病気も死の運命も免れ得ないとされて来たのは無理からぬ事であった。かの釈尊の言われた生病老死の諦めもその為である。また今日予防医学という事を言 われるが、これらも一度病に犯されるや容易に治し得ないからの窮余の産物としか思えない。何となればもし医学が治病能力が絶対であるとしたら、予防医学な ど考え得られないからである。ここで再び本論へ戻るが、前述の如く病原である反自然とは如何なる点であるかを説明してみるが、まず人間罹病するや唯一の方 法として薬剤を用いるがこれがそもそもの誤謬である。薬剤とは漢方に於いては草根木皮、洋方に於いては鉱物植物等から抽出されるもので、これが根本的反自 然である。考えてもみるがいい、右の如き薬剤の性質は必ず苦味、臭味酸味等例外なく人間の嫌忌される味をもっている。よく昔から「薬の後の口直し」という 事がよく物語っている。これらの飲み難いのはなぜであろうかを考えるべきで、神は有毒であるから飲んでは不可である事を示されているのである。かの苦痛緩 和用の麻痺剤としての阿片は芥子の花から採るのである。元来芥子の花とは神が人間の眼を楽しませる目的で造られたもので、決して人間が飲むべく造られたも のではない。また近頃流行薬の一つとして用いられるペニシリンにしても、原料は植物の苔と言う事であるが、これらも人間が口へ入れるものとして造られたも のではない。石または土に美観を添えるためのものである。この理によってあらゆる飲食物は人間の嗜好に適するよう造られている以上それを食えばいいので、 それが自然である。よく何が栄養になるとかならないとかいうような事などは勿論誤りである。食物は凡てその土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、そ れがその土地に生まれた人間に適すべく生産されているのである。黄色人が米を食い、白色人が麦を食うのもそうであり、日本が島国であると言う事は魚食を多 くせよという事で、大陸人は肉食である事もそれでいいのである。この理によって、農民の菜食も自然に適っている。二六時中休みなく労働に堪えうるという事 は、菜食が適しているからである。その理を知らない栄養学は近来農民に魚肉を食わせようとするが、これを行えば農民の労働力は減少するのである。それに引 替え漁民は魚食のため持続的労働はできない。間欠的に労働する。また魚食は敏感性を高めるので漁業に適するので、自然は実に良く出来ている。
以上は、薬剤と食物の反自然的誤謬を概略書いたが、特に薬剤が如何に有毒であるに拘わらず、なぜ昔から応用したかという根本原理を漸次とき進めて見よう。